1 :muffin ★:2020/01/03(金) 18:01:55.16 ID:Bz4RX/+69.net
https://www.news-postseven.com/archives/20200103_1520656.html
2020.01.03
今では「男性アイドル=ジャニーズ」という印象を持つ人は少なくない。それほどまでに、ジャニー喜多川氏(享年87)の功績は大きい。だがもし、ジャニー氏が『たのきんトリオ』の一員として、田原俊彦や近藤真彦をグループで歌手デビューさせていたら、芸能史は変わっていたかもしれない──。そんな芸能史の転機を、データとともに振り返ってみよう。
ジャニーズ事務所が現在のように芸能界を席巻するようになった契機は、1979年10月26日開始のドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役に田原俊彦、近藤真彦、野村義男が抜擢されたことに始まる。
1975年に郷ひろみが移籍し、1978年にフォーリーブスが解散。1970年代後半、事務所は低迷していた。その窮地に現れた3人はドラマとともに人気が上昇。1980年3月28日の『金八先生』最終回は視聴率39.9%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)を記録し、社会現象を巻き起こした。
その後3人は、5月からフジテレビ系の学園ドラマ『ただいま放課後』に出演。5月11日に行われた番組イベントで、3人の頭文字から取った『たのきん族』というニックネームが発表された。当時は公募から選んだと発表されていたが、のちにジャニー氏が自ら名付けたことを認めている。
その後、呼び名は『たのきんトリオ』として定着していき、3人はテレビ番組などで頻繁に共演していた。歌手としては6月21日に田原俊彦が『哀愁でいと』、12月12日に近藤真彦が『スニーカーぶる〜す』でソロデビューを果たした。
1990年代以降、ジャニーズ事務所からのデビューはSMAP、TOKIO、V6、KinKi Kids、嵐などグループばかりになった。もし1980年に田原俊彦と近藤真彦がソロではなく、『たのきんトリオ』の一員として歌手デビューしていたら、現在のようにジャニーズ事務所が繁栄していたとは限らない。
『ザ・ベストテン』(TBS系、1978〜1989年放送)を例に考えてみよう。1980年代前半に毎週のように視聴率30%前後を叩き出し、多大な影響力を誇った同番組には、田原俊彦が1980年7月10日に初登場して以降、1983年7月14日までの156週連続で、田原か近藤のいずれかが登場した。3年間、ジャニーズ事務所の歌手が出続けたことで視聴者に絶大なインパクトを与えた。
2人のランクイン数を合わせると1980年が田原26、近藤1の計27回、1981年が近藤48、田原45の計93回、1982年が近藤53、田原41の計94回になる(*ランクインを1カウント。つまり、1週に2曲ランクインしていれば2カウント。そのため1982年の発表は52週だが、近藤は53回を数えた。これは『ザ・ベストテン』における年間最多ランクインの記録である)。
もし『たのきんトリオ』という1つのグループで歌手デビューしていたら、これほどのランクイン数の実現は不可能である。『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)など各局の歌番組にも、人気ソロ歌手が2人いたからこそ“ジャニーズ事務所の出演回数”を増やすことができた。
続きます
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